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ふらふらしながら、主にWebとVR技術のこと、映画の感想、体験したサービス、気になったことなどに関してゆるく書いていきます。

10月8日、本日公開!湊かなえの小説映画化『少女』観てきた感想と考察(ネタバレ注意)【映画】

映画

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(写真:http://www.shoujo.jp/) 

 

湊かなえさんの小説が原作の映画『少女』

10月8日公開ということで、公開日の今日観てきました〜!!

 

小説を読んで面白い作品だと思っていたので、映画公開楽しみにしていました!

 

 

 

登場人物と物語のあらすじ

 

 

furafura-nau.hatenablog.com

 

登場人物や簡単なあらすじ、映画の特徴などはこちらをどうぞ。

 

 

 

映画の感想と考察

 

 

今回は、渋谷TOEIで観てきました!

公開日かつ休日のお昼だったにも関わらず、席の埋まり具合は1割程度でした。

観に来ている人は、意外にもおじさんが多かったイメージですね!笑

 

前売り券を購入した際に、映画の記念ポストカードもいただけました。

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それでは、映画自体の感想と考察。

 

 

本作と映画での「闇」の捉え方の違い

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(写真:http://www.shoujo.jp/ 

 小説では、「死」を過剰なまでに求める由紀と敦子の姿が重点的に描かれますが、本作では由紀も敦子も「死」をそれほど重視しているようには見えません。

 

なんでかなぁ。

と思ったので、本作監督の三島有紀子さんの言葉を確認してみました。

 

原作では「人の死を見たことがあるか」というのが(人間の)裏側を見るきっかけになっていますが、映画ではそこを起点にはしていません。17歳にとって、何が死に近いほど嫌なことなのかを考え続けました。自我が肥大しているその子たちが傷つくのは、その肥大した自我が崩壊して、尊厳を傷付けられた時なのではないかと。尊厳を傷つけられる度に、それぞれの裏側に隠していた“闇”がめくられ死を意識していく。その中で「人の死を見たことがあるか」と問われて行動に拍車がかかっていく、というのが面白いんじゃないかと。

(引用:http://www.shoujo.jp/

 

「死」そのものではなく、死と同等の意味を持つ「自分の闇をめくられること」が、中心に描かれていたようです。

 

小沢は盗作と援助交際を暴かれ、紫織は自分の痴漢冤罪詐欺を暴かれて自殺してしまったことを考えると、「自分の闇をめくられること」=「死」という関係性が描かれていたことがわかりますね。

 

 

水に飛び込む意味は?

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(写真:http://www.shoujo.jp/

 敦子がクラスの女子にいじめられて、発作を起こしてしまった時に水の中にいるように息苦しくなったこと。紫織の親友が自殺した時、浴槽で水に浸かっていたこと。由紀が「死」のことに言及してから海に飛び込み、すぐに上がってこなかったことで牧瀬(由紀の彼氏)が由紀の「死」をイメージしたこと。などから、水中=死を連想させるものがありました。

 

タッチー&昴が、高雄と昴のツーショット写真を水槽に沈めますが、「水=死」であることを考えると、この時点で高雄を殺そうとしていることが暗示されています。

 

結局、暗示通り昴は父親である高雄に果物ナイフを突き刺し、殺そうとしてしまいました。

 

 

おばあさんと由紀の持つモノサシ

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(写真:http://www.shoujo.jp/

 

 おばあさんが由紀に注意するときには、モノサシを使っていますが、なんで「モノサシ」なのかな。と考えてみました。

 

モノサシは、「ものの尺度を測る」という機能がありますが、これが意図として含まれているのではないかと思いました。

 

おばあさんの持つモノサシだけでは意味がわかりませんでしたが、由紀が小沢に小説を盗作されてしまい、小沢に対して怒りを表現するシーン。

由紀がモノサシを使って、小沢の名前を削り続けます。

 

小沢は、小説家としては成功することができなかったものの、小説家として成功するという夢を諦めていない。しかし、才能(尺度)が足りない。その結果、由紀の盗作をして小説家としての小さな成功を手に入れてしまう。

そのことに対して、由紀はモノサシを使って小沢への怒りを表現したのではないかと思いました。

 

また、映画では描かれていませんでしたが小説では、おばあさんからモノサシで叩かれ続けた由紀は、「自分のできること」を制限してしまっていることが描かれています。

モノサシで傷をつけられて握力が低下した結果、重いものを持つことも諦め、リンゴの皮をむくことも不可能だと決めつけて(自分の尺度を決めて)しまっていました。

 

 

物語のテーマ:因果応報

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(写真:http://www.shoujo.jp/

 小説(本作)と同じように、テーマは「因果応報」でした。おばあさんを殺そうとした由紀は、おばあさんに一生消えない傷を負わされ、由紀の小説を盗作した小沢(国語教師)は自殺に追い込まれ、由紀に迫ったおじさんは逮捕され、痴漢詐欺でおじさんを騙していた紫織(転校生)は、いじめのターゲットになって自殺に追い込まれる。

というように、見事に悪いことをした人は自分にも悪いことが返ってきていました。

 

最初のシーンで、由紀と敦子を含むクラスの女子数名が「遺書」を口にするというものがありますが、最後のシーンでその遺書の内容が「紫織の遺書」であったことが判明します。

最後のシーンが最初のシーンに繋がっているのだとすると、紫織が遺書を送りつけたクラスの女子全員に、その後何かしらの因果応報が起こる気がします。

 

ラストシーンでは、由紀が小説を書き終わって、「了」という字を書き終えようとして横棒を書いたところで、映画は終わってしまいます。

このことからも、因果応報の連鎖は終わっていないことが暗示されているのではないでしょうか。

 

  

 総じて、小説と映画では「どの部分を重視して描くか」が大きく異なっているので

小説を読んでいない人は、ぜひ小説も読んでみて欲しい作品ですね!